気仙大工の初見

「気仙大工」という言葉が文献上初めて出現するのはいつだろうか。
 実は「気仙大工」という言葉が使われた文献は現在のところ2例しか存在しない。
 ひとつは、藤沢町・金野学家に伝えられた「家作諸入料覚」(元治元年、1864)で、その中に「気沼大工、三作」という記述があ。またもうひとつは宮城県大郷町・雫石家棟札(明治34年)である。これには「気仙大工」と記され、金野冨吉、藤倉豊吉の2名が記載されている。


正徳時欄間
棟札や建築記録には職人名に職人の出身地(居住地)を付すのが通例で、棟札に気仙大工と記されていることは、自ら気仙大工と働くことによって生まれた言葉にちがいない。では、気仙大工が気仙地方以外で仕事をするようになったのはいつだろうか。高橋恒夫(昭和61)によると、宮城県唐桑町・賀茂神社がもっとも古い。亨保12年(1727)、今泉村(現、陸前高田市)の安兵衛による建立である。安兵衛は、大船渡市・熊野神社や陸前高田市の金剛寺、長円寺、観音寺など真言宗の寺院建設を行った人物である。ただし、この加茂神社の建立は気仙郡と本吉郡の共同事業だったようで、出稼ぎとは異なっている。 
ほかに、天明3年(1783)興福寺(宮城県気仙沼市)、文政5年(1822)峰仙寺(宮城県本吉町)など江戸時代のみで5件報告されている。いずれも、気仙地方から近い所であるが、現在の宮城県金成町などのようにやや離れた所も2件ある。社寺建設に限られているが、これは民家建築は棟札が発見されないことと建替えが進んでいることによる。
 以上のことから、18世紀の半ば頃には気仙郡外で仕事をしていたようだ。こうしたことから気仙大工という呼称が発生したのは、江戸時代後期または幕末ではないだろうか。 ここでは「気仙大工」成立以前の大工も気仙郡の大工であれば気仙大工と呼ぶことにする。

最古の棟札

 では、気仙大工の建築はどこまでさかのぼるだろうか。それには建築年代と大工の名前がわからなければならない。それには棟札などの建築記録を調べればよい。 気仙最古の棟札は大船渡市・熊野神社本殿棟札である。棟札によると寛永18年(1641)大工将監によって建てられた。ただし、熊野神社は過去数回再建されているので、当時の建物は存在しない。
 大工将監については居住地(出身地)が記載されていないので、気仙大工と断定できない。他に長谷寺棟札に登場するが、年代が離れているので、別人であろう。
 気仙大工の建築で最も古いものは、元禄10年(1697)の浄福寺である。その棟札も建物も存在しないが、浄福寺再建棟札(寛政12年、1800)の裏に先殿の記されている。また、陸前高田市・常膳寺観音堂は、元禄9年(1696)の記録があるが、大工はわかっていない。寛政から文化・文政年間の建築は、比較的よく残っている。浄福寺本堂(寛政12年、1800)、長安寺山門(寛政12年、1800=推定)、正徳寺(文化3年、1806)、普門寺三重塔(文化6年、1809大工不詳)など注目すべき建築が数多い。

 

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