出稼ぎの記録

 気仙大工の特徴のひとつは通年的な出稼ぎをすることである。
 旧小友村の菅野善左衛門は陸前高田市・閑蕉院(明治20年)の脇棟梁である。明治28年頃には、正徳寺の欄間彫物を完成している。社寺建築の脇棟梁を務めたり、龍の彫物をするくらいであるから相当の腕であったにちがいない。この菅野善左衛門は現在の藤沢町に出稼ぎ地をもっていた。


折上天井 ちぢれ杢と亀の尾が美しい
『藤沢町の民家』(藤沢町)によると、菅野善左衛門は旧黄海村の岩淵家を定宿とし、旧黄海村周辺で仕事をした。棟札はないが、聞き取りによって2件確認されている。藤沢町は気仙大工の出稼ぎ地のひとつで、もっとも古い民家建築記録として、文久2年(1862)の墨書がある。 ほかにも宮城県北部に出稼ぎに行くことを「南行き」といった。

「南行き」の記録

陸前高田市小友町・鈴木三郎氏は明治42年生まれ。長く、北海道旭川市で建築設計棟梁を勤めた。現在は、「気仙大工等の伝承を探る会」の会長をつとめ、地域史を研究している。同会の発行した『小友匠衆の歩み』は気仙大工の建築・人物を記録した力作であるが、その人脈には圧倒される。3年間で600戸を踏査し、気仙大工の建築・出稼ぎ先・主な建造物をまとめている。


戸袋 二軒扇垂木、三手先
 その中に会長・鈴木善三郎氏の出稼ぎ記録がある。貴重な記録なので、引用して紹介しよう。大工見習となったのは、大正13年から昭和3年まで。その後昭和8年から12年間、宮城県黒川郡内で働いた。「私が弟子入りをして宮城県に行くときの服装は、下着はメリヤスシャツと足首にひものついたモモヒキ。上着は絣の着物に木綿の紺足袋下ばきでした。」
 当時の交通機関は三陸汽船会社の蒸気船でした。師匠の奥さんが、大工道具箱と竹行李を背負い、私の母は竹行李を背負って脇の沢駅まで送ってくれましたが、母たちが乗船の見送りもせずに帰りました。
 第一船の出港は午後9時ごろで、蒸気船のボウボウ鳴る汽笛の入港とともに裸電球燈の薄暗い光ともる脇の沢駅桟橋からはしけに乗り、本船に乗り出港してよく午前6時頃塩釜港に上陸、後汽車で東北本線岩切駅で下り列車に乗り換えて松島駅で下車後、馬車に乗り12キロメートルほど行った所に中村という田舎町で下車し、さらに徒歩で1キロメートル程歩いたところが宮城県黒川郡大谷村字東成田(現、大郷町字東成田)に午後5時ごろ到着したのでした。
 私の父、善次郎の出稼ぎ当初(明治30年頃)は、妻ヨシミが大工道具衣類等は馬に積むか又は背負って松ノ坂峠(上長部)の上の方の山の峠まで送って、そこで見送って帰ってきたのだそうです。
 当時は日の良い日に3人、あるいは5人と連れ立ったりしたので、妻又は家内の人たちの帰りの話題も楽しくもあり、又はさびしくもあったことでしょう。
 このように3人、5人と同じ道中をするので出稼ぎ地はグループによって決まるので縄張りがあったようです。」(小友匠衆の歩み)
 

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