宮城県の記録

 では、宮城県北部ではどのように伝えられているだろうか。東北歴史資料館発行の『宮城県の諸職』(1990年)によると次のようである。
 「気仙沼地方には戦前まで大工はあまり多くなく、陸前高田市付近の気仙大工と呼ばれる渡り職人が支えていた。春先に来て暮れに帰るが、20〜30人も組んで移動し、気仙沼に着いてからは棟梁格の者を1人入れて4〜5個のグループに分かれた。1年も働くとお得意ができるので、毎年正月に棟梁が挨拶しながら、その年のフセ普請情報を得、約束を取り決めて行く事もあった。」
 「黒川郡の大工には東部と西部の二系列があった。古くは郡一円を黒川流と称する大工が支配したが、やがて西部に移る。東部へは気川流と松島流が入った。気川流は大谷の山崎に岩手県気仙郡より出稼ぎの大工が入り職人の中にはそのままこの地に住み着いた者がいて、その流れをくむ職人である。


西方寺山門 (宮城県仙台市)
松島流は松島に腕のたつ大工がいてその人について技術を習った人々の系列をいう。現在は流派を耳にすることはない。」(大郷町・八巻権 大正7年生まれ)
 「宮大工技術を継承する気仙大工が南行きと称して宮城県北の水田地帯や船運の便利な南三陸沿岸に出稼ぎに来た。中には定住して弟子をとる者もあったという。」(志津川町・佐藤猛 大正6年生まれ)
「旧地主の多い地域で、地主は一般農家より手のこんだ家をつくったため腕のよい職人が出入りしていた。
話者の祖父は気仙大工系の宮大工であり、父も家業を継いだ。」(田尻町・伊藤壬亮 大正3年生まれ)この記録から、幕末にはすでに気仙大工が宮城県北部に出稼ぎしていたことがわかる。出稼ぎ地に定着した例は少なからずあったのではないか。現在宮城県在住の大工であっても、気仙大工の流れをくむ者があり、それは気仙大工の中には入っていない。本人も、知らない人もいるのではないだろうか。
 

前へ< 1・2 >

   
Copyright© 2003-2005 気仙大工建築研究事業協同組合 All Rights Reserved.