持仏堂と広間

 気仙大工の建築を特徴づけるものに、持仏堂(御御堂)との広間がある。
 持仏堂とは屋敷の中に設けられた小さなお堂である。小さいといっても、小さな家一件分くらいはある。正面に向拝を設け、縁を廻し、外陣と内陣部分は座敷としている。内陣には須弥壇、厨子を置き、ご本尊を安置している。
浄土真宗に見られ、気仙地方には数棟存在している。
 三陸町砂小浜にある千田基久兵衛家には江戸時代中期の持仏堂がある。
千田家文書のなか、8代仁兵衛の項に「改築仏堂天明五乙巳年起工、文化七庚午年落成」とある。元禄15年(1702)4月29日に「木仏安置御免」とあるから、このころ持物堂を建立し、天明5年(1785)に改築したものと思われる。
ただ、大工職人がわかっていないので気仙大工の建築とは断定できないが、気仙地方には他にも持仏堂があるから気仙大工が造ったことは十分推定される。持仏堂は小さなお寺といえるから、社寺建築に憧れる気仙大工としては造りたかったのではないだろうか。
 広間はいわゆる離れで、茶室・数寄屋建築である。これをもつのは豪商や当時の社会的身分の高い、限られた人々である。そのため、造作等惜しみなく財を投じているものがみられ、上質の造りとなっている。こういう施主を持った大工は他ではできない造作の技術を磨くことができたであろう。

せがい造り

 では一般民家建築ではどのような特徴が見られるであろうか。
 まず、軒を大きく出すせがい造りを多用することがあげられる。せがいとは船の櫓(やぐら)を出す部分「せがい(青海)」に似ているのが語源らしい。「出し粱」である。江戸時代には規制があったとされ、多用するようになったのは明治以後と考えられる。
家の三方にせがいを廻す三方せがい
が普通で、四方せがいにはしないというが、四方せがいの例もある。肝入りに許されたといい、江戸時代の農民階層を知る手がかりになる。気仙大工のせがいは、粱先をまるで社寺建築のように眉を欠くのが多い。
 なお、「出し粱」は納屋にも用いられ、気仙地方独持の納屋造りとなっている。

せがい造り で梁に眉欠き

華やかな造作

 気仙大工の建築には、およそ民家建築にはふさわしくないような装飾が見られることがある。平山憲治氏はこれを社寺建築への憧れと表現する。
たとえば、戸袋は屋根を二軒として深く出し、組物は三手先。扇垂木とすることもある。彫物も施し、室内の欄間等でもその実力が発揮される。仏壇や神棚は結組などの組物を見せ、小さな社寺建築といったほうがいいかもしれない。
なお、建具や仏壇なども家大工によって造られたものである。
建具等を造る指物大工は近年まで分業しなかったという。
 そのほか、玄関じ唐破風を用いたり、懸魚、軒支輪を見せたりする例や、室内では扇支輪の祈り上げ天井という例もある。このような社寺建築を取り入れる例は母屋のみならず、板倉などにも見られることがある。


氷上神社 海老虹梁の彫物
気仙大工のサイン

気仙大工がサイン代りに残したともいうべき共通した造作がある。ひとつは板長押。板長押とは、幅の広い長押のことである。幅は一尺以上もあろうか。江戸時代には規制があり、肝入りなど上層農民住宅に見られる。
 腰付障子や板戸の桟にも特徴がみられる。
桟の数が真ん中が三本、両わきに二本となっている。ここでは「三二の桟」と呼んだ。このデザインは雛型本にも見つかっていないが、共通して見られることから何らかの意味があるのではないだろうか。
 そして縁側の隅における扇状の縁板の張り方である。一般的には切目縁などにする所である。これを屋根の軒板に応用した例もある。
 この3点は外部あるいは、玄関や座敷から簡単に見ることができ、一目で気仙大工の建築と推測できる。
 気仙大工の建築は造作が華やかなだけではない。構造的にもしっかりしていて、二重牛梁や本小屋組が見られる。牛梁は小屋組を支える背骨というべきもので、非常に太く長い用材が使われる。
現在ではそのような大木は手に入らないだろう。この牛梁を土間で支える柱が「牛持ち柱」である。また、土間の隅には火打ち梁などが用いられ、合理的に柱が省略されている。「すみごうり」と呼ぶが、「隅虹梁」の略であろうといわれている。本小屋組は天井をあげると見ることができない。前述の雫石家住宅は今でも見ることができる。
 

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